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日本橋”町”物語
江戸・明治から平成へ、日本橋の歴史〜

日本橋馬喰町・日本橋横山町

 馬喰町も横山町も今は問屋街の中心をしめていますが、江戸時代からの姿を見ると、両町の間には違いがありました。

馬喰町

 馬喰町はいう迄もなく旅籠屋がずらりと並んでいた、いわば旅宿街でした。古くは馬喰たちが出入りする宿場町的様相があったといいますが、やがて郡代屋敷がおかれて、江戸と地方の商店などと公事訴訟事件などが起ると、次第にその地方から出てくる人のために宿屋が増加し、ずらりと並ぶ旅宿街だったといいます。古く家康入国ごろは、初音の馬場とよばれる馬場があり、馬の勢揃いなども行なわれ、この馬喰町のほかは、馬の売買が禁じられていたといいます。大阪との戦いが終ると平和が訪れ、馬喰などとは関係がなくても、奥州街道から江戸にくる人々のため、次第に通行人も多く、馬喰町辺の旅屋へ泊る人々が多くなっていったといいます。
 江戸が発展するにしたがって、江戸へくる人々が増加し、一層旅館がそうした人々を収容するため旅籠屋が増加し、訴訟に出て来た人ばかりでなく、附近に問屋街が集中するようになると、馬喰町の宿屋へ泊って、品物を宿屋へ持参させ、じっくり品物を選ぶといった傾向になり、問屋と宿屋がうまく地方の人々を此処に引きつけてきたのだそうです。
 明治になって新しい宿屋が別な処へ出来ていって江戸時代とは少し違っていきましたが、それでも日露戦争ごろは活況を呈して、かなりの数の宿屋があったといわれています。
 明治の40年代でも、1丁目に刈豆屋、相模屋、伏見屋、下総屋、京屋、大松屋、上州屋、2丁目には藤森館、山城屋、桝屋、羽前屋、亀屋があり、3丁目には福井屋、大阪屋、福島屋、美濃屋、合津屋、河内屋、松崎屋、梅治、三鷹屋などが、まだ残って営業していたといいます。(中央区史による)
 まだまだ、隣りの横山町に小間物など仕入れにくる商店の人々の宿泊する旅宿の街であったことはたしかです。

横山町

 横山町は、そうした関西方面の商品を売りさばく問屋といった店々が、馬喰町の宿屋に泊って、いろいろと品物を選び、買い入れる、いわば泊って品物を仕入れる人々が、続々とこの町に入りこんでくると、その人達の買う品物などをみて、それらの品物を客の要求に応じて売る問屋が、馬喰町とほとんど一つのような隣りの横山町にどんどん増加して、一つの問屋街となっていったともいえます。
 江戸時代、投宿する客のニーズに答えて開店した横山町には小間物問屋、紙屋、煙草入問屋、地本双紙問屋などが目立つ存在だったといわれています。 幕末の「諸問屋名前帳」に出ている横山町の店々は次の通りで、「中央区30年史」によると

呉服問屋、塗物問屋、紙問屋、瀬戸物問屋、丸合組小間物問屋、通町組小間物問屋、地本双紙問屋、紙煙草入問屋、荒物問屋 苫問屋、地廻り米穀問屋、下り雪踏問屋、地漉紙仲問、板木屋

 馬喰町の宿屋街とタイアップした問屋街がもうすっかりこの横山町に定着して紙とか小問物雑貨を主とした問屋街をつくりあげていったのです。

明治以降の発展

 馬喰町は明治になっても、横山町のように江戸時代の問屋が一層発展していったのに比べれば、まだまだ商人たちの旅宿の町といった江戸の面影がつづいていたようですが、横山町はどんどん問屋街として伸びてゆき、市区改正で浅草橋へ行く道がひろがるにつれて、問屋街は馬喰町へとのび、背中合せで、互いに発展していったといえます。
 明治33年に出た「新撰東京名所図会」には次のような店が、横山町1丁目から3丁目までのうちから取りあげられています。

1丁目
万屋 帽子洋傘卸商、宝文堂 筆墨碩問屋、近江屋 和洋縫針小間物、小松録衛 靴鞄製造販売、明石屋 半襟商、柴木伊助 組絲問屋、鍵屋花火問屋 御用花火調整師、近江屋 小間物卸商、天野卯兵衛 小間物卸商、丸山伝兵衛 呉服木綿商、尾張屋 料理店

2丁目
高木商店 絹糸綿糸、高木大五郎 時計・自転車店、上総屋 べっこう、さんごじゆ、大島屋 鞄袋物・銀貨入卸商、岡本寛童 メリヤス製造販売、鶴田助次郎支店 糸綿商、金鯱堂 小間物商、盛真堂 小間物商、徳永保之助 ブラシ刷毛商、高見沢作三郎 メリヤス商、森本支店 小間物商、山本吉太郎 和洋帽子卸売商、青木金六 菓子卸商、佐野菊次郎 銅鉄商、福見定助 小間物商

3丁目
山丸商店 小間物商、若松屋 メリヤス商、辻岡文助 書籍商、大久保善作 茶商、東京商事銀行、 佐野大和堂 売薬化粧品商、万武支店 小間物卸問屋

 馬喰町が、明治時代を通じて、横山町の繊維問屋的な商店の進出を見ながらも、なお旅宿街として、東京ではかなり地方の広がる存在感を示していたことは、多くの人々が語るところです。
 しかし、馬喰町が旅宿街でない、横山町の問屋街に近い街になってゆくことを決定づけたのは、大正3年末の東京駅の開業によるといわれています。一般に東京駅が東京の中央駅として見られるようになると、馬喰町の宿屋はどんどんへって行き、多くはいろいろの問屋にかわって、関東大震災後も残ったのは古くからの宿屋としては伏見屋一軒きりだったともいわれています。
 そして横山町と馬喰町は一つ大きな繊維を主にした問屋街にと発展していくことになります。

横山町・馬喰町と養子制度

 今度の座談会でも、いろいろ養子制度についてお聞きしましたが、いまだに続いてるいる横山町・馬喰町の問屋街の特色に養子制度という慣習が残っています。『横山町・馬喰町史』(馬喰町紙問屋中村家資料) 日本橋の商店街などが、どんどん時代に応じて近代的商業、会社企業に転じていったのに比すれば、横山町・馬喰町の問屋街はむしろ幕末封建制度的形態を保ったままで、明治維新に及んだといえるのではないでしょうか。
 今その問屋街としての在り方の一つの大きな特色である養子制度、或はのれん分け制度といった古い慣習をうまく残していった姿をとりあげてみましょう。
 横山町・馬喰町の問屋街の旦那衆たち、いろいろの浮沈などがあって、自然に身について覚えたことなのでしょうが自分の店を維持して永続させて行くために、何としてもあとつぎを立派な商人にする必要があり、これが第1の方法で、そのためには、自分に娘があった場合、他の商店の伜で、これはと思う人物に目星をつけて、年中その人の評判などもきき、また店員などで気にいった人物があれば、それに注目、大丈夫と見込めば、ぜひ娘の婿にということで、それを養子として、場合によっては伜がいても、伜には店のあとをつがせず、他に店を出してやって、その店を守らせ、自分の店のあとはその養子に一切を任せるという方針をとる。これが有名な横山町・馬喰町の「養子制度」といわれているものです。
 「週間朝日」(33年4月20日号「日本の企業」)で大宅壮一さんが、養子制度について新しい血を入れて、営業を時代に適したものにしていくことが大事なことで、それがあって永続が可能なのだといったこと、横山町・馬喰町の各商社商店にまだ残っている封建的ないろいろのしきたりを打ち破るには養子制度が必要で、それによって活路を見出すことが出来るといった新しい解釈で養子制度を見直し、多くの人々の注目するところとなったのです。

のれん分け制度

 もう一つの特色は、問屋街に独特ののれん分け制度があったことです。
 のれん分けというのは系列会社、いわば◯◯一家といった形で、自分の店に永く実直に勤めて、家のために働き、店を大きく育てるのに役立った人に、ちゃんとした店をもたせて、金銭的に援助することは勿論、品物の仕入れについての面倒を見ることや、客の一部をさえ分けてやるということで、いわゆるのれんを一つにした店、系列会社を作っていくという方法をとって、業界に勢力をのばしていく方法ををとっていき、同じ商標を使って、分家した店といったことが一目でわかるような制度を確立して拡大していくことで、明治以降どんどんこうしたのれん分けによって、系列会社が親会社のもとでのびていったのでした。今でも横山町・馬喰町の問屋街の店々、何々一家とよばれ、一家のうち万一何か災難でもあると本家は徹底的に一家を動員して、その店の面倒をみてやり、安心して商売出来るようにしてやることで系列のつながりをはっきりと示しているのです。
 ただし、独立させて貰ったのれん分けをうけた店が、同じ商品を売る店とはかぎりません。ある系列一家は、それ迄ののれん分けの店々に主家と同じ品物の店をつぐことを許可せずに、悉く系列店は主家と全く違った商品を販売することで一家となることが出来る店もあったようで、小間物から全く違う品物に転じた店などもあったのです。これは主家の商売をさまたげないようにして、主家を護りながら一家として伸びてゆくという方針が堅持されていたとも云われていて、のれん分けということなかなか一家として栄えていくのはむずかしい条件もあったようですが、互いに助けあいいろいろ面倒を見てもらいながら系列の中で伸びて行くという方針が守られている点で注目すべき制度といえましょう。

震災後の横山町

 震災復興した横山町・馬喰町は小間物を中心にした東京一の問屋街へと進むすばらしい躍進ぶりでしたが、多くの他の日本橋や銀座の商店が、ショーウインドウをとり入れ陳列方式を採り入れ、正札売りと陳列装飾で、新しい時代に代っていったのに対し、少し保守的な横山町は復興後も座売りを守り、タタミに座り、客がくると一々見本箱を開いて客の要求の「見本箱」を開いて商品を見せるといった具合で、しばらく古い慣習を守っていたようです。しかし大きく変ったのは現金問屋が増加したことで、昭和の大不況に掛売りで現金が期日がきても支払えない小売り屋が続出、問屋側も従来通りとすましていられず、掛売り全廃の現金問屋になるものが続出したのですが、「現金安売り問屋」の看板をかかげる問屋が多くなったいきました。しかし掛売りの問屋もかなりあり、戦後は掛売り問屋もかなり回復して、入り交りながら活況を呈しているといえましょう。

新道通り

 戦後の横山町と馬喰町の発展ぶりは目覚ましいものがあります。やはり震災後特に賑やかになった新道通りが雑踏をきわめています。
 新道通りは横山町と馬喰町の境にある道路で、狭い通路というべきもの、溝に板を張り、その上を通行したので、俗に板新道と呼んでいます。明治になって発展した場所ですが、日露戦争後、馬喰町の玩具店から出火し、その後、溝板をはがして石に代えた所を石新道、溝の上に穴のあいた鉄板をしいた処を鉄新道とよびもとの板のままの場所をそのまま、板新道とよんだそうです。震災後は道も広がりすっかり、そうした呼称はなくなっていった上、今のように新道通りとよばれて、ここが、現在でも軒さきまで商品がつまれるほどの混雑をし、横山町の一つの名物の通りになっていますが、それが単的に新しい馬喰町・横山町の問屋街の発展活況ぶりを示しているといえないでしょうか。

(中央区文化財保護審議会会長 川崎房五郎)


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