日本橋“町”物語日本橋“町”物語

日本橋蛎殻町

江戸城下東部の武家屋敷地

蛎殻町は中央区の北東部にあたり、日本橋から東約800メートルに位置します江戸開府のころは江戸湾(東京湾)に面した隅田川河口の右岸の海浜の地で、その後の埋立で陸地化し、浜町とよばれた地域でした。蛎穀町の地名は、江戸初期の『寛永江戸図』に、現在の中央区日本橋小網町2丁目の辺りに「かきがら」とあり、はじめは砂浜に面した俚俗地名であったと思われます。

江戸初期のころには後の蛎穀町1丁目の地は大名の伊東右京や酒井雅楽頭の蔵屋敷があり、大名の国許から船で、江戸に入る物品を収納する蔵屋敷地でした。同じくのちの蛎穀町2丁目の地も、青山大蔵や酒井讃岐守の蔵屋敷が広大な土地を占めていました。

その後、江戸中期にかけて浜辺の埋立が進み、箱崎川や浜町川の掘割の開削が進むと、のちの浜町3丁目・4丁目の地の区割りが行われ、大名屋敷として区割りされていきました。諸藩の中屋敷や下屋敷に下賜され、その間には大身の旗本の屋敷地としても下賜されました。江戸城下東部の武家屋敷地が形成されていったのです。

建ち並ぶ大名屋敷と旗本屋敷

この地の屋敷地は江戸中期に造成が完了し、広大な大名・旗本屋敷地に変貌しました。現在の蛎穀町1〜4丁目の地域の大名屋敷の様子を見ておきましょう。幕末ごろの屋敷地として、土井堀と稲荷堀に囲まれた地に、播磨国(兵庫県)姫路藩15万石・酒井雅楽頭の中屋敷。稲荷堀を挟んで、現在の日本橋小網町の地に陸奥磐城(福島県)平藩5万石・安藤長門守中屋敷、土井堀を挟んで銀座が所在し、それの北東に隣接して上総国(千葉県)鶴牧藩1万5千石・水野壱岐守下屋敷、播磨国山崎藩1万石・本多肥後守上屋敷、上野国(群馬県)伊勢崎藩1万石・酒井下野守下屋敷(永久橋際)。のちの蛎穀町2丁目の地に美濃国(岐阜県)加納藩3万2千石・永井肥前守中屋敷、越後国(新潟県)村上藩5万石・内藤紀伊守中屋敷、のちに遠江国(静岡県)浜松藩6万石・井上河内守上屋敷などの大名屋敷が並んでいたのです。

東端の箱崎川に沿って紀伊国(和歌山県)和歌山藩主徳川家の蔵屋敷、上総国貝淵藩1万石・林播磨守上屋敷、その隣りに将軍家一門の清水殿の下屋敷が連なっていました。

のちの水天宮の地は大身の旗本の戸田十三郎の屋敷、のちの蛎穀銀座の地に隣接して7千石の大身旗本安藤捨之丞などの旗本拝領屋敷も混在しています。

浜町川の対岸にも上野国館林藩秋元家中屋敷や、磐城平藩安藤家上屋敷などがあり、付近一帯は大名屋敷特有の練塀の続く、樹木鬱蒼とした閑静な地域でした。

明治四年の町場起立と蛎穀銀座

広大な武家屋敷地であった当地域は、明治4年(1871)の廃藩置県で大名・旗本屋敷地が政府に収公されたので、空地になったのです。遠江国浜松藩井上正直、播磨国姫路藩酒井忠邦邸跡地、その他を合併して蛎殻町1丁目が成立して、町場化していきました。

蛎殻町2丁目も武家地であったところを明治4年に起立した町です。当町域北部と元大坂町の地域には、江戸後期から明治2年(1869)の間、江戸幕府の銀貨鋳造所が設置されていました。銀座役所と呼ばれ、元々は京橋(現中央区銀座2丁目)に設置されていましたが、享和元年(1801)に当地に移転し、蛎殻銀座と呼ばれました。当役所では、明治2年の明治新政府による新円切り替えにより、大阪市の造幣局に貨幣製造業務が移転するまで、1・2分銀や1・2朱銀、丁銀や豆板銀の他、寛永通宝の四文銭を鋳造していました。明治2年に役所を撤去した際、その敷地の床土に銀が多量に包有されていたため、銀座の役人が床土を掘り採って、運び去ったと記憶されています。

鎧橋の完成

当時は町域の南北に人形町通りが通り、稲荷堀に沿って土井小路が通っていました。明治5年(1872)に箱崎川にあった渡船「鎧の渡し」を廃止して、豪商三井氏らが私費を投じて木の鎧橋を架橋しました。そのために日本橋方面からの交通が至便となり、人形町通りに商店が増え、栄えていったのです。

鎧橋は明治21年(1888)に総工費3,700万円をかけて鉄橋に改架され、東京の新名所になり人気を博しました。鎧橋は大正4年(1915)に拡幅されて市電が通行し、新大橋と八丁掘を結ぶ主要道となりました。さらに梅堀を埋め立てて道路が広がり、そこに仲買店が集まって繁華な大通りになっていきました。

米穀商品取引所の開設

さらに日本橋近くの金融の中心地兜町と直結したため、金融業はもとより、株取引き、商品先物取引の中心地となり、町はますます活況を呈していったのです。

明治7年(1874)に中外商行会社(のちの蛎殻町米商工会所)、明治26年からは東京米穀商品取引所となりました。ほかにも東京商品取引所や東京油問屋市場等も開設されています。

現在の蛎殻町1丁目食糧会館ビルは、昭和3年(1928)に完成した東京米穀商品取引所の建物です。このように蛎殻町一帯は商品先物取引の盛んな活気ある町として発展してきました。

明治7年に1丁目に有馬小学校が開校し、昭和8年に現在地に移転しました。1丁目の東華小学校は明治34年に開校しています。又、神田岩本町(千代田区)にあった日本橋区役所が明治12年に2丁目に移転し、同25年に現在の日本橋出張所の地に再移転してきました。

水天宮の移転

蛎殻町2丁目西北角にある水天宮は、九州の筑後国(福岡県)の久留米藩主有馬邸の守護神として祀られていました。文政元年(1818)に江戸城下の赤羽根(港区)の久留米藩邸に移され、明治5年(1872)に現在の蛎殻町2丁目の、もと旗本戸田十三郎の屋敷地に再移転してきました。安産の神様として広く庶民の信仰をあつめ、大正初年に人形町通りを市電が開通すると、近郊からの参詣客でますます賑わい、毎月1日・5日・15日には縁日のため多くの出店が並び、夜店も出て大変な賑わいでした。

国の旗日には、水天宮前の市電停留所の前に電飾で美しく飾った花電車が並び、これも東京の一風物詩となったのです。 また、明治13年(1880)に当地に移転してきた観音堂の縁日も大変な賑わいをみせ、水天宮前から神田方面に向かう市電通りは夜遅くまで人々の往来で賑わっていました。

戦後は営団地下鉄半蔵門線の開通で再び賑わいを取り戻し、参詣の人々は毎月5日の縁日を楽しんでいます。

明治・大正期以降の様相

明治から大正期にかけて蛎殻町には、箱崎川の水運を利用した船荷が陸揚げされたため、稲荷堀の通りには雑貨問屋が並び、1丁目には瀬戸物問屋が集中していました。それと共に米屋が多くなり、米屋町とも呼ばれました。

大正12年(1923)9月の関東大震災の災害から復興した蛎穀町でしたが、再び昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲で一帯は焼失し、大きな痛手を受けることとなりました。

戦後の復興は、人形町通りと新大橋通りに食べ物屋の屋台が並ぶころから復興に向かい、夜中まで人々の往来が続くほどになりましたが、戦前の様子とは大きく様変わりし、米穀取引所や1丁目の瀬戸物問屋、それを運ぶ運送屋もめっきり少なくなっています。船運に利用されていた浜町川や箱崎川も昭和45年(1970)ごろの埋立で無くなり、その後は新しいオフィス街に生まれ変わっています。

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