日本橋“町”物語日本橋“町”物語

日本橋人形町

日本橋人形町1〜3丁目のなりたち

日本橋人形町1〜3丁目は、中央区の北側、日本橋の東にあたり、日本橋堀留町1・2丁目の南に隣接して位置しています。

江戸時代の当町一帯は、北部が町人の住む町、南部の蛎殻町一帯は大名屋敷の並ぶ武家地でした。人形町の名は江戸時代の里俗地名で、大伝馬町2丁目と通旅籠町の間を南北に横切る通りに、古くからこの名称がありました。元禄江戸図には「さかい町」と和泉町の間の通りに「人形町」と見えています。むかし、堺町、葺屋町に結城座、薩摩座などの人形芝居があったころ、長谷川町の辺りに人形を造る家が多く、あるいは、手遊物・錦絵などを商う店が多く、賑わった所でした。

正月には手鞠羽子板、3月には雛人形、5月には菖蒲人形の市がたちました。人形町の名はこうしたところから生まれたものと思われます。昭和8年に正式町名の「人形町」が成立しました。

もとの人形町1・2・3丁目は昭和8年2月、新和泉町、住吉町、堺町の東半、芳町の東一部、蛎殻町2丁目の東一部、元大坂町の東一部、松島町の西大部を合せて成立しました。それを1・2・3丁目に分けたのです。1丁目は当町最南端に当り、松島町西大部と旧蛎殻町2丁目の地にあたります。

さらに人形町は昭和51年1月の新住居表示によって旧人形町1丁目は日本橋人形町1・2丁目に分かれました。日本橋人形町は旧蛎殻町1・2丁目と日本橋小網町の一部、芳町1丁目全域を合せて成立しました。

日本橋人形町2丁目は旧人形町1・2丁目の一部、日本橋浪花町の大部分、蛎殻町1・4丁目の各一部を合せて成立しました。

日本橋人形町3丁目は昭和55年1月、新住居表示により、旧人形町3丁目と芳町2丁目を合せて成立しています。

日本橋人形町の江戸時代の様相

旧人形町1丁目は、それ以前の蛎殻町2丁目及び松島町の西大部の地でした。蛎殻町の地域は、江戸時代初期は、隅田川河口近くの西岸の埋立地で、稲荷堀より以東の里俗地名でした。寛政12年(1800)に新両替町から幕府の貨幣鋳造役所である銀座が移転してきて、幕末まで銀貨や銅銭の鋳造を行った「蛎殻銀座]のあった所です。その他の地はほとんどが大名・旗本屋敷の武家地で、幕末には上総国請西藩水野家、陸奥国磐城平藩安藤家、播磨国姫路藩酒井家の藩邸がありました。明治初年には民間地として払い下げられ、次第に町場となったのです。

松島町は武家地に囲まれた町人の住む町で、江戸中期には町奉行の組屋敷が一時置かれた所です。松島神社があったので、町名になったといわれています。

日本橋人形町2丁目は、1丁目の北側にあたり、昭和8年2月、元大坂町の東一部、蛎殻町2丁目の一部、住吉町の南大部分を合せて成立しました。町の東側には、かつて久松橋の傍から入った入堀があり、この掘に面した所を住吉町裏河岸といいました。ここには、江戸時代、かまどを作って売る者が多かったので、「へっつい河岸」と呼ばれていました。

高砂町・新和泉町・難波町・住吉町の辺りは吉原遊郭の地で、明暦の大火後に浅草に遊廓が移転したので、謡曲にちなんで高砂町や住吉町と命名されたと伝えています。

大坂町は東堀留川の東側に沿った町で、天正年間(1573〜1592)の頃に、大坂の廻船がこの辺りまで入津して、大坂町となってと伝えています(『東京府志科』)。また、大坂の人が開いたためともいわれています。その後、新大坂町が成立したので、当地は元大坂町と改称したとされています。明治初年まで当地に沿って蛎殻町に入る土井堀がありました。なお、人形町2丁目の一部の地には、幕末頃に美濃国加納藩永井家の藩邸があり、一部が武家地であったことがわかります。

日本橋人形町3丁目は、旧人形町3丁目と芳町2丁目の地で昭和55年に成立しました。旧人形町3丁目は江戸時代以来の新和泉町の全域及び住吉町・堺町・芳町の各一部からなっていました。

新和泉町は、もと吉原の西南隈に当る地で、吉原の移転後に開かれた町です。堺町に近いので、和泉国堺(大阪府)の国名をとって和泉町とつけたのであろうと想像されます。

町の北側が大門通りで、西側には金物商が軒を連ね、“鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春”の繁昌をうたわれた地でした。銅匠の銅屋寅次郎もここに住んでいました。地内1番地には、江戸時代初期の元和年間(1615〜24)に幕府の奥医師岡本玄冶が、1,500坪に及ぶ広大な拝領屋敷をもらって住んでいました。人々は玄冶店と呼び、歌舞伎の世界で知られています。

芳町の一帯には1万坪に及ぶ広大な薩摩国鹿児島藩主島津家の藩邸がありました。

堺町は、『東京府志科』によれば「慶長年中(1596〜1615)の開創なり、此辺等大坂の廻船入津せしに由て、大坂近傍の名勝住吉・堺などの名を用ふ」として、堺町となったと記しています。寛永年間(1624〜44)に中村座が開業してからは浄瑠璃・説経・操り人形など、様々な見世物小屋や茶屋が軒を並べ、一大歓楽街になりました。

堺町に隣接する葺屋町は、東堀ッ川に面した沼沢地であったのを、慶長、元和年間(1600〜24)に埋立てて町場とした所といわれますが定かではありません。町名の由来は屋根葺職人が多くいたためと伝えています。

日本橋人形町の戦前から戦後の状況

明治に入っての人形町の賑わいは、明治5年に水天宮が当町南端に移転してきたことにも起因しています。以後、人形町通りは市内有数の商店街となり、裏路は下町を代表する繁華街として知られるようになりました。明治33年頃の繁栄について『新撰東京名所図会』には、「馬車鉄道は、通旅籠町の角にて、人形町と呼わり停車すべく、殊に水天宮の祭日には、参詣人群集雑沓織るが如く、蛎殻町辺りよりは、近年市区改正を、行ひ、道路を拡張し、一等道路第2類に準じ、人道車道を区画し、柳樹を栽培せり。同所の夜市の如きは最も賑へり。」とその様子を伝えています。

3年後の明治36年には市電が人形町通りに開通しました。両国から浜町を通り水天宮から茅場町・築地と抜けて数寄屋橋へ至る電車が当町域の中央を南北に通るようになり、その後、北千住から上野駅を通り、土州橋間が開通し、人形町商店街にいっそうの繁栄をもたらしました。

大正12年9月の関東大震災で大きな被害を受けましたが、その後の復興も早く昭和8年の区画整理で、はじめて人形町という正式町名が誕生しました。

今次大戦の戦禍には幸いにも少しの被害ですみ、戦前の家並が各所に残っています。

昭和10年の統計書によると、人形町商店街の構成内訳は、小売店鋪77、卸売店1、銀行1、接客業者14とあります。また、業種別では、呉服太物麻織物14軒。和洋菓子10軒、洋品類10軒、履物、雨具6軒、他6軒という構成でした。

戦後の昭和26年には総ジュラルミンのアーケードが完成して、近代的な商店街になりました。問屋のない小売店が多い繁華街として各店が華やかな装いをこらし、夜おそくまで人出で賑わっています。

明治36年開通の市電は、その後、昭和18年から都電と名称を変えましたが、地域の人々の便利な足として親しまれていました。その都電は昭和44年に撤廃されました。

しかし、それと前後して、地下鉄営団日比谷線と都営浅草線が開通して人形町駅が開業し、交通が便利なため、人形町商店街はますますの発展をしています。

当町に隣接する日本橋蛎殻町2丁目北角にある水天宮の5月5日の例大祭や戌の日の縁日などには各種の出店なども出て、ご利益を求める人々で賑わいをみせています。

<< インデックスページへ戻る

サイトマップ プライバシーポリシー
江戸・明治から平成の歴史 日本橋“町”物語
東京都印刷工業組合 日本橋支部 メールアドレス
Copyright(c) TPIA All Rights Reserved.