2004年10月9日、東京都印刷工業組合日本橋支部・印刷技術研究会は、総勢13名で中国の印刷事情を視察するため、2泊3日のスケジュールで遼寧省・大連に出向いた。



大連印刷工場(住友カラー印刷工場)視察報告
旅順観光報告記




< 旅順観光報告記 >

 


■ 旅順

遼東半島の先端、黄海と渤海との境に位置する旅順口(大連市から車で1時間位)は古くから我が国有名な港と歴史悠久な都市であり、軍事上の海上要衝でもある。中国近代史に二回の戦争(日清戦争、日露戦争)がここで勃発した。それ故、古跡と戦跡が多い。日本人にも知られた地名で、203高地、東鶏冠山や白玉山など今でもその遺跡が多く残る。
 旅順要塞はロシア太平洋艦隊の最大の拠点とするために、ロシアが旅順港を囲む山に8年の歳月を掛けてセメントで築城した永久要塞である。
 旅順港にはロシア太平洋艦隊が停泊していたが、本国からバルチック艦隊が来援する事になった。同艦隊と太平洋艦隊が合流すれば日本の連合艦隊にとっては大きな脅威である。そこで旅順港の港外に船を沈めて封鎖を試みたが失敗に終わった。(この状況は文部省唱歌「広瀬中佐」の歌を掲載しましたので、感じ取ってください)そのために陸上から旅順要塞を攻撃するしかないと考え、陸軍を大連港に揚陸、3回の総攻撃を東鶏冠山や松樹山といった最強の要塞を攻略する事にこだわった。
 ここに至って漸く僅かな応急陣地があっただけの203高地に攻撃目標を変更、203高地を攻略占領した。203高地が確保されると、ここから旅順港内の軍艦や港湾施設へ砲撃を加え、旅順艦隊を全滅させた。
 この戦いの戦死者は15,400名、負傷者は44,008名の損害を出した。その主要な原因としては、要塞内部の情報不足・築城に対する認識不足・攻撃準備の不足・203高地の緊要地形としての価値の看破が遅かった事などが揚げられるが
情報量の不足、指導者の判断の誤りが大きな犠牲をもたらしたと思われます。良い情報を収集し的確な情勢判断をする事は大切な事と痛切に感じました。なお、旅順周辺は美しい風景地区になっており、渤海沖の蛇島にはおよそ何万匹のマムシが生息しているという。

 


■ 東鶏冠山

 最大の激戦地であったこの山も、当時は一面はげ山だったそうだが今は樹木が多く茂り当時の面影は無い。入り口の駐車場にある案内板は中国文、英文、日本文で書かれてあり、日本軍の侵略云々が書いてありました。
 全山ロシア軍の要塞跡が残されており、そのコンクリートの厚さは尋常でなく、今なお、側壁には銃弾の跡がそのまま残っており100年もの歳月が過ぎたとは思えない生生しい形骸を留めている。こんな要塞が出来ているとは知らずにただやみくもに攻めて、何万人もの尊い血を流した事が信じられない。やはり情報不足、状況判断だったとしか思えない。支部の優れた経営者が指揮官だったらこんな事にはならなかった?
 これは実際に見てみないと解らない、勉強になりました。この東鶏冠山も最終的には地下道を掘り進んだ日本軍の手で爆破され、歩兵の突撃で陥落したそうです。頂上には要塞占領後建立された立派な記念碑が建っていて、大きな文字で「東鶏冠山北保塁」と彫ってあり、「明治27年8月以来第11師団の諸隊之を攻撃し同年12月18日占領す、陸軍大将男爵 鮫島重雄 碑銘を書す」と記されていた。

 


■ 203高地

 大連市から旅順市までは車で約1時間、203高地は旅順の北西約2キロにある小丘で、標高203メートルである事から203高地と命名されたとか。バスを降りて入り口から山道を10分位登ると頂上へつく。頂上までの道は舗装されているが勾配はかなり急で、前夜夜遊びが過ぎた人や年配の人は100元出して往復籠に乗る。竹竿2本に籐椅子をくくりつけた籠を、2人の若者が途中2度ばかり休憩し、大汗を掻きながら頂上まで運んでくれる。
 頂上には戦後、大砲の鉄や薬きょうなどを溶かして作ったという砲弾の形をした記念碑が建てられている。モニュメントには「爾霊山」(にれいさん)と書かれており203とかけた言葉 「爾(なんじ)の霊の山という意味」だそうです。
 この碑を建てた乃木大将は山で死んだ多くの霊に鎮魂の想いをこの3文字に託し次の詩を詠んでいる。

 

爾霊山剣なれども 豈攀じ難からんや
男子功名 艱に克つを期す
鉄血山を覆うて 山形改まる
万人斉しく仰ぐ 爾霊山

 

 頂上からは旅順港が一望出きるという事だが、残念ながら晴天でしたが靄がかかって旅順港の様子は見られなかった。司馬遼太郎の「坂の上の雲」のシーンでは「そこから旅順港が見えますか」「見えますまる見えです」というが。

 


■ 水師営

 「旅順開場規約」は戦争中ロシア軍の野戦病院として使用されていた水師営の崩れ残った農家で、乃木大将とロシア軍のステッセル将軍の会見が行われ、そこで調印された。
 入り口の土塀の門の板に「会見所」と横書きされた門を入ると、草葺の民屋があり、入ってすぐ左側に歴史記念物の棗(なつめ)の古木が1本残っているが、枯れてしまって葉は一枚もついていない。ここで1枚記念撮影。
 正面の会見室に入ると真ん中の部屋は会見室で、会見のとき用いられた、元は手術台だったという机があり、会見後の記念写真が飾られている。
 右側の部屋は日本軍控え室、左側はロシア軍控え室と書かれた木の板が掛かっている。両側の部屋とも、戦争現場写真と会見後の両軍将校たちの記念写真がぎっしりと飾られており、お年寄りの案内人が流暢な日本語で写真の説明をしてくれた。会見の様子は文部省唱歌「水師営の会見」を載せておきましたので
お読みくだされば会見の模様が少しでも理解できるかと思います。

 

広瀬中佐  文部省唱歌

 

轟く砲音 飛来る弾丸
荒波洗う デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫
「杉野は何処 杉野は居ずや」

船内隈なく 尋ねる三度
呼べど答えず さがせど見えず
船は次第に 波間に沈み
敵弾いよいよ あたりに繁し

今はとボートに うつれる中佐
飛び来る弾丸に 忽ち失せて
旅順港外 恨ぞ深き
軍神広瀬と 其の名残れど

 


水師営の会見      佐々木信綱 作詞

旅順開城約なりて
敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ 水師営

庭に一本棗の木
弾丸あともいちじるく
くずれ残れる民屋に
今ぞ相見る 二将軍

乃木大将は おごそかに
御めぐみ深き大君の
大みことのり伝うれば
彼かしこみて 謝しまつる

昨日の敵は今日の友
語ることばもうちとけて
我はたたえつ かの防備
かれは称えつ 我が武勇

かたち正して言い出でぬ
「この方面の戦闘に
二子を失い給いつる
閣下の心如何にぞ」と


「二人の我が子それぞれに
死処を得たるを喜べり
これぞ武門の面目」と
大将答力あり

両将昼食共にして
なおも尽きせぬ物語
「我に愛する良馬あり
今日の記念に献ずべし」

「厚意謝するに余りあり
軍のおきてにしたがいて
他日我が手に受領せば
ながくいたわり養わん

「さらば」と握手ねんごろに
分かれて行くや右左
砲音絶えし砲台に
ひらめき立てり 日の御旗

 

(事務局 渡邊)

 

 

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